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限界まで日本には戻らない――アメリカ行きの片道切符|越圭司

本シリーズ #CrossoversStories は、日本の若き挑戦者たちの海外バスケット留学を追う連載インタビューです。
本記事では、世代トップPG・越圭司選手のアメリカ挑戦を追います。
越 圭司(こし けいじ)
2009年、愛知県生まれ。小学生から世代別の県選抜に名を連ね、2025年にはB.LEAGUE U15 CHAMPIONSHIP 2025で優勝とMVPを経験。沖縄移住を経て、全国の舞台でも数々のタイトルを手にした。
世代No.1ポイントガードと評され、U16日本代表にも選出されたが、彼は立ち止まらない。今年9月、ネブラスカ州オマハのConcordia Lutheran Schoolsへ。将来のNBAを視野に、異国の地での挑戦が始まる。
2025年6月下旬、夏の光が射す午前。地元の緑に囲まれた小さな公園、その一角にある一面だけのバスケットコート。そこで、16歳の少年はいつものようにボールを打ち続けていた。
「不安はないっす。ワクワクしかない」(圭司)
そう笑ったのは、日本のバスケットボール界で世代No.1ポイントガードと呼ばれる越圭司だ。
この記事では、日本で輝かしいキャリアを築いている越が、なぜ渡米を決意したのか、そして未来にどんな景色を見ているのかを追っていく。

■小学1年生からの夢
越がバスケットボールを始めたのは小学生の頃。ミニバスでボールを追いかけたのがきっかけだった。
「アメリカに行きたいって思ったのは、小1からですよ。NBAに絶対立ちたいって、7歳からずっとリアルに思ってました」(圭司)
夢は憧れではなく、幼い頃から彼にとって現実の目標だった。小学6年生で名古屋ダイヤモンドドルフィンズU15に飛び級で登録。中学では部活とクラブチームを両立し、さらに中学2年生の秋には「末広コーチに教えてもらいたい」という強い思いから母とともに沖縄へ移住し、琉球ゴールデンキングスU15にも所属した。
■挫折と挑戦の連続
中学2年生で挑んだ『「世界と勝負できるBALLER(ボーラー)」を発掘・育成するプロジェクト「GLOBALLERSプロジェクト」』では奨学生に選ばれなかった。
「悔しかったです。でも、アメリカでバスケをすることを諦めるわけではない。他の方法も含めて、すぐにまた挑戦しようと思いました」(圭司)
同世代で奨学生に選ばれた仲間と比べて、英語でのコミュニケーション力の差を痛感した。だが、それも越にとっては次への課題でしかなかった。
母は当時を振り返る。
「小さい時から『アメリカに行きたい』と言っていたから、遅かれ早かれだと思っていました。でも、現実になると費用や生活面の不安も大きかった。親としてすぐに『はい』とは言えなかったですね」(母)
それでも越の意志は揺るがなかった。母は最終的にその覚悟を受け止め、背中を押した。

■沖縄で得たもの
越のキャリアにおいて大きな転機となったのが、中学時代に沖縄へ移籍したことだ。
「良かったことしかないです。本当に短い1年半でしたけど、末広コーチに習えたのが一番大きかった」(圭司)
母も同意する。
「常にプレッシャーをかけて、練習でも精神を鍛えてくれた。大会でも動じない心を作ってくれたのは末広コーチでした」(母)
中学最後の大会である『B.LEAGUE U15 CHAMPIONSHIP 2025』決勝前ウォームアップ。いつもならチームを鼓舞しながら調整を重ねる越の姿は、メインコートにはなかった。
「チャンピオンシップ決勝の前は、今まで感じたことのない感情にのまれていました。実際、サブアリーナにこもって、自分で準備するしかなかった。末広コーチと少し話して、いろいろ吹っ切ることができた。メインコートに入る時には、もう集中できていました」(圭司)
その後のパフォーマンスは圧巻だった。結果、優勝を果たし、大会MVPを獲得する。苦しい時間を超えた経験は、彼の精神力をさらに強くした。
■現在のルーティン
中学を卒業して渡米までの間、越の日常はバスケットと英語に費やされている。
「朝9時からオンラインで英語をして、その後走りに行って、昼食。できるときは自分で作ります。午後はワークアウトして、夕方はチーム練習。そのあとまたシューティング。終わったらもう夜です」(圭司)
PGというポジションにとって、英語力は必須だ。
「英語が話せないと何も始まらない。コミュニケーションが取れないと。ポイントガードだから」(圭司)
だからこそ、今は英語の勉強に一層の力を注いでいる。

■家族の支え
母はインタビューでこう語る。
「圭司は小さい頃からいろんなスポーツに挑戦してきました。スノーボードやスケートボードもやってきた。でも最終的に残ったのはバスケでした。チームスポーツが彼に合っていたんだと思います」(母)
越自身も言う。
「一番楽しかったのがバスケだった。チームでやるのが楽しいと感じてました」(圭司)
家族にはバスケット経験者が多く、自然と競技が身近にあった。
「家族の中にバスケは常にありました。圭司はその環境で育ったんです」(母)
母にとっては、息子の大きな挑戦も日常の一部。支える姿勢は日本でもアメリカでも変わらない。
「子どもに目標があると、親も頑張れるんです。日本にいてもアメリカにいても、どこにいても同じだと思います」(母)
■渡米への覚悟
アメリカの高校に留学する日本人選手は、1年間1軍の公式戦に出場できない『365日ルール』に直面する。それを承知の上での決断だ。
「知ってました。でも行かなきゃ始まらない。初めの1年は辛抱の年。この1年で英語と文化を身につけます。焦りはないです」(圭司)
さらに越は言葉を重ねる。
「オレは限界まで日本には戻らない。そのくらいの覚悟です」(圭司)
未来の目標を聞くと、こう答えた。
「NBA選手。でも、まだスタート地点にも立ててないから」(圭司)

■未来へ響くボールの音
小さな公園で打ち続けるボールの音が、未来へ響いていく。
「NBAってだけでも十分高い。でも、夢は自由だから」――母の言葉が重なる。
そして越は静かに言った。
「行かなきゃ始まらない。オレは絶対に諦めません」(圭司)
越圭司の物語は、ここから新たな章へと踏み出す。
インタビュー・文/写真:Megumi Tamura
Editor’s Note|編集後記
本記事の公開1週間前、JBAから『FIBA U16アジアカップ2025』に臨むU16男子日本代表12名が発表された。取材を続けるなかで、彼はいつも「自分が選ばれるとは思っていない。本当に誰が選ばれるか分からないから」と口にしていた。慢心することなく、自分を戒めるように努力を積み重ねてきた姿がある。
その積み重ねが日本でのキャリアをさらに豊かにし、その上でアメリカに挑む礎となっている。
夏が終わり、秋の始まりから新しい環境に飛び込む彼の挑戦を、これからも記録し続けていきたいと思う。
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“我慢の一年”を力に――未来を見据えるジュニアシーズン|恒岡ケイマン

本シリーズ #CrossoversStories は、日本の若き挑戦者たちの海外バスケット留学を追う連載インタビューです。
本記事では、将来有望なPF/C・恒岡ケイマン選手のアメリカ挑戦を追います。
恒岡ケイマン(つねおか けいまん)
2008年、京都府生まれ。京都府選抜やナショナルキャンプに選出され、中学時代から世代有数のビッグマンとして注目を集める。2024年夏、15歳で単身渡米し、カリフォルニア州エンシノのCrespi Carmelite High Schoolへ。
名将デリック・フィッシャーHCの下で心身を磨き、365日ルールにより公式戦に立てない1年目を我慢とトレーニングに費やした。身長198cmのパワーフォワード兼センターとして成長を遂げ、2025–26シーズンからVarsity出場権を得て本格的なキャリアを歩み出す。
目標はNCAA D1スカラシップの獲得、そしてNBAの舞台。静かに燃える闘志を胸に、挑戦の日々は続く。
春の光が差し込む羽田空港。『ADIDAS NATIONS TOKYO U19 SPECIAL CAMP 2025』を終え、約2週間の日本滞在を経て、再びアメリカへ戻ろうとする恒岡ケイマンの姿があった。出発ロビーでインタビューに応じる彼の表情は、16歳らしいあどけなさと、365日の試練を乗り越えた者だけが持つ静かな自信とが同居していた。
「メンタルとの勝負の一年でした」(ケイマン)
その言葉には、単なる苦労話ではなく、自ら選んだ留学を覚悟と犠牲を背負って歩んできた時間の重みが刻まれていた。この記事では、彼が挑んだ我慢の365日と、アメリカでの日常、そして未来への視線を追う。
■挑戦の始まり
2008年9月、京都に生まれた恒岡ケイマン。小学生の頃から高い身体能力を武器に、京都府選抜やナショナルキャンプに選出され、中学世代の注目選手として名を馳せてきた。
だが彼が選んだ次の舞台は、日本の強豪高校ではなかった。2024年夏、15歳でカリフォルニア州エンシノのCrespi Carmelite High Schoolへ進学。そこには、かつてNBAで5度優勝したデリック・フィッシャーがヘッドコーチとしてチームを率いる環境があった。目標はただひとつ――NCAA Division Iの奨学金を獲得し、NBAへ進むこと。
しかし渡米直後、思いもよらぬ制度の存在を突きつけられる。
『365日ルール』。転入や留学生は1年間公式戦に出場できないという規則だ。本人はその存在を知らずに渡米した。初めて知らされたときの心境を、ケイマンはこう振り返る。
「知らなくて。知ったときは、もう日本帰ろうかなって思いました」(ケイマン)
プレーできない一年。それは、留学を決意した15歳の少年にとって想像以上に重くのしかかった。

■我慢とメンタルの一年
「メンタルとの勝負の一年でした」(ケイマン)
公式戦に立てない日々は、想像以上に過酷だった。
「正直、最初は本当にきつかったです。試合に出られないのがこんなにしんどいとは思っていませんでした。日本に帰ろうかなって考えたこともありました」(ケイマン)
彼はそう打ち明ける。公式戦に立てないという事実は、15歳の挑戦者にとって自分の存在意義を疑うほどの重さを持った。しかし、その空白を埋めたのは支えと自分との戦いだった。
「コーチも仲間も、2軍の試合にまで顔を出して声をかけてくれました。普通なら見に来ない試合なのに『ケイマンも頑張ってるから』って。あれは本当に力になりました」(ケイマン)
さらに彼は自らを追い込んだ。Aチーム(Varsity / 1軍)でもBチーム(Jr. Varsity / 2軍)でも練習を重ねた。状況に耐えながら、バスケットボールへの情熱をただ練習に注ぎ込んだ。
「2軍やからこそ、もっとトレーニングしようって燃えました。落ち込む時間もあったけど、電話で家族や友達に話して、自分を立て直しました」(ケイマン)
そんな彼を支えた仲間の存在も大きい。大学進学が決まっていた先輩ペイトン・ホワイトは、毎朝6時に車で迎えに来て、体育館で二人きりの練習を重ねてくれた。
「『次はお前の番だ。俺のポジション取れよ』って言われて。本当にうれしかった。今でも心に残ってます」(ケイマン)
「やっぱり“我慢”するしかなかった。でも、我慢して練習に打ち込んだからこそ、気づけば前より強くなっていました。」(ケイマン)
この一年は、ただ待つ時間ではなかった。自らを磨き、心を鍛え、次のシーズンに備えるための時間になった。
■デリック・フィッシャーの存在
彼を導くフィッシャーHCは、勝者の哲学を知る存在だ。
「Coachフィッシャーは、僕が2軍にいるときも必ず見に来てくれました。普通なら1軍しか見ないのに、『もっとやれるぞ』って。あの人の下でやれること自体が大きなチャンスです」(ケイマン)
■積み重ねた日々を解き放つとき
「今はもう、ここから発揮するだけって気持ちです」(ケイマン)
一年間貯めてきた想いは、彼の中でエネルギーに変わっている。
「もし1年目から試合に出られていたら、ここまでメンタルは強くなっていなかったと思います。この一年があったから、今はネガティブに考えないで、次どうするかだけを考えられる」(ケイマン)
ジュニア(高3)*1シーズンを迎える今年こそ、勝負の年。スカウトが注目する大切なシーズンを前に、彼の眼差しはまっすぐ未来を捉えている。
「やっと準備ができた。もう待たなくていい。ここから、積み重ねてきたものを全部出すだけです」(ケイマン)

■留学1年目の日常
ケイマンの一日は規則正しい。
朝は8時に起床し、8時半に授業開始。午後1時半、もしくは3時までに終了する。放課後はすぐにロッカールームに集まり、3時から3時半は自主的なウォーミングアップ。音楽を聴き、ルーティンを整えてからチーム練習が始まる。
「試合はBチームだけど、Aチームでも練習させてもらいました。ダブルでやったほうが上手くなると思ったんです」(ケイマン)
帰宅後は夕食、課題、入浴を済ませ、10時半には就寝。睡眠は9時間前後を確保する。
「寝れるのが最高です。8時間以上寝られたら十分」(ケイマン)
週末は練習試合やカップ戦。プレシーズン中は公式戦ではなかったため、Aチームで出場できた瞬間もあったが、だがシーズン直前、やはりルールによって本戦には出られないと告げられた。
「めっちゃ落ち込みました。泣いて、家で色々考えました」(ケイマン)
それでも諦めなかった。朝練、筋トレ、個人スキルの磨き上げ。1年間の我慢は、技術とメンタルの両方を強くした。
「この一年があったからこそ、ポジティブに考える力もつきました」(ケイマン)
■年間スケジュール
アメリカのバスケットは年間を通じて動く。
9〜11月はプレシーズン、11月から2月が本格シーズン。春から夏にかけては『AAU(Amateur Athletic Union)』での活動が始まる。
『AAU』『ナイキのEYBL』『アディダスの3SSB』『アンダーアーマーのUA Association』『プーマのPRO16』などがあり、それぞれ全米規模でサーキットを転戦。最後には各リーグの頂点を決める。『ナイキのピーチジャム*2』は世界中のスカウトが集まる最大の舞台だ。
「夏は一番伸びる時期。学校もないから、AAUと学校の練習を両方やります。忙しいけど、やっぱ成長できるんです」(ケイマン)
彼が帰国したのも、この春休みのタイミングだった。2週間の日本滞在を終えると、再びAAUと学校練習の二重生活が始まる。
■これから渡米する仲間
今年からアメリカへ渡る仲間の存在も、彼の励みになっている。
「一年試合に出られないのは本当にキツい。でも、それを分かっていても挑戦する仲間はリスペクトしかない。アメリカで戦えるのが楽しみです」(ケイマン)
日本に残れば注目を集め、国内大会に出場できたはずの世代。その選択を犠牲にしてまで挑戦を選ぶ仲間の覚悟を、彼はよく理解している。
「アメリカ挑戦にはsacrifice(犠牲)が必要。でも、その先にD1があり、NBAがある。僕も迷わずこの道を選びました」(ケイマン)
■未来への視線
「ここからです。これから発揮するだけです」(ケイマン)
365日の我慢を越えた彼は、今まさに勝負の年を迎える。ジュニア(高3)*1シーズンはスカウトが最も注目する時期。
「シニア(高4)*1のシーズンが始まる頃には、みんな進路を決めている。だから僕は今年中にアピールしないと」(ケイマン)
D1、そしてNBA。その道はまだ険しいが、彼は迷わない。

■そして未来へ
最後に、家族や仲間、応援してくれる人々への言葉を求めると、彼は少し照れながらも真っすぐに口にした。
「心配しなくて大丈夫です。僕を信じてください。必ずうまくいくので」(ケイマン)
そして、後輩たちへのメッセージ。
「アメリカに挑戦するなら、ただ行くだけじゃなくて本当にバスケットが好きで、絶対にやりたいという強い気持ちが必要です。そういう燃えるハングリーさがなければ、途中でくじけてしまいます。
僕もまだまだ苦しんでいます。でも、ハングリーな気持ちがあれば必ず乗り越えられるし、必ずうまくいくと思っています。
それから、人との関係を大事にしてください。コーチや仲間とのつながりが、自分を支えてくれる力になります。挑戦する中で、やめたくなる時や苦しい時もあると思う。でも、それは全部メンタルとの勝負です。
立ち止まらずに、自分を信じて、自分の力を最大限発揮すること。そうすれば必ず道は開けます。もし本気でアメリカに挑戦したいという気持ちがあるなら、迷わず挑戦してほしい。僕はそう思います」(ケイマン)
365日の我慢を越えて、心と身体を鍛え、仲間と未来を信じる力を手にした恒岡ケイマン。羽田空港のゲートに向かう背中は、迷いなく未来を見据えていた。これから始まるのは、“我慢”ではなく“勝負”の日々だ。
インタビュー・文/写真:Megumi Tamura
注釈(*1)
アメリカの高校は4年制で、日本の「中学3年生」がアメリカの「高校1年生(Freshman)」に相当する。
• 高校1年=Freshman(フレッシュマン)
• 高校2年=Sophomore(ソフモア)
• 高校3年=Junior(ジュニア)
• 高校4年=Senior(シニア)
同じ呼称は大学でも用いられる。
注釈(*2)
Nike Peach Jam(ナイキ・ピーチジャム) は、Nike Elite Youth Basketball League(EYBL)の年間王者を決める決勝トーナメント。毎年7月にサウスカロライナ州ノースオーガスタで開催され、全米各地の強豪チームが集結する。NBAやNCAAのスカウトも多数視察に訪れ、アメリカ高校バスケット界で最も注目度の高い舞台のひとつとされる。
Editor’s Note|編集後記
インタビューの最後に、ケイマンは「俺もまだまだわかんないんですけど、今伝えられるのはこんな感じなんです。偉そうに聞こえたら嫌だなぁ笑」と謙虚に、そして少し照れくさそうに付け加えた。
365日の我慢を越えた彼の言葉には、経験した者にしか持ち得ない重みがある。それでいて「まだまだわかっていない」と語るその姿勢に、彼の素直さと未来への伸びしろがにじむ。
アメリカで過ごす日々は決して簡単ではない。だが、我慢と支えを力に変えた彼は、これから本当の勝負のステージに立つ。
この記事を通して伝えたいのは、「挑戦のリアル」と同時に、「謙虚さが人を強くする」ということだ。
恒岡ケイマンの挑戦は、まだ始まったばかりである。